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348私は50代半ばの男性です。
すごく長くなってしまったので暇潰しできる時にでもお読み頂ければと思います。
.……私も全く同感です。
小学校から中学1年まで私も同じように、死の恐怖から存在している恐怖を感じ、頭から離れずよく発狂しそうになりました。いつからか覚えておりませんが、その恐怖感をコントロールする(考えないようにする)ことが出来るようになりました。
精神科に相談されたとのことですが、解決出来ないと分かっていてあえて相談したのではないでしょうか?.……気づいている人を求めていたのでは?
私は、相談しても決して解決出来ないことだし、他に「この恐怖を味あわせる(気づかせる)わけにはいかない」と思い、誰にも相談することはしませんでした。また、相談以前に本当の意味でこの恐怖を理解できる人が周りにはいないと考えていたところもありました。
死にたくない=永遠の命が欲しい→地球は滅びる……死から逃れる方法はないのか思い考えるうちに、宇宙やこの世の果≠ノついて考えるようになり、果てがない=存在していない.……より深く自分なりに考え、漠然としたものではない死∴ネ上の恐怖に気づいてしまいました。
死の恐怖≠熹ュ狂するほどの恐怖でしたが、それ以上に絶望的な恐怖でした。そういったことまで考えてしまう人間に生まれたことを本当に悔やみました.……「犬や猫ならこんなことまで考えない」と思ったのです。
これ以上ない恐怖を知り「怖いもの無し」になってしまったのか?私の人生は破天荒なものになりました。20代に入り破天荒な人生は楽しさを増し、それを楽しむうちに「解決しないことを考えても仕方ない」「恐怖は感じてもいいことはない」と思うようになりました。いくら頭から消そうとしても消せない恐怖をだんだん頭から消せるようになったのはその頃からだと思います?
今すぐにでも発狂するほどの恐怖を感じることも出来ますし、我が子が誕生した時には、喜びより先にこの世に誕生させてしまったことを申し訳なく思ってしまったりと、少し変わった感性を持つようになったと思いますが、「生きている間は人生を楽しみたい」と周りの人達と変わらない気持ちで生活しています。
他のスレで、存在に恐怖していると言いながらも実は死に恐怖している方や、存在に漠然とした恐怖を感じている方がいらっしゃいますが.……その漠然とした恐怖が自分と同じく発狂するほど恐ろしい恐怖だということがよくわかります。(漠然としているだけで、同じ事に気付き発狂するほどの恐怖を感じてしまったのだと思います)
私は死≠含め出来事全て(存在)を否定するようになっていましたが、生きて存在している以上、全てを否定し続けることはできず、いつしか死≠ノ対しても改めて考えるようになりましたが、死≠ノ対しての恐怖は本当になくなりました。(死の恐怖も存在する恐怖もつきつめると同じものになるのかな?)
死≠ヘ恐怖というより悲しさや寂しさだと思うようになりました。
大切な人達との別れ、楽しみからの別れ、また、残された人達に対する不安や未練など、恐怖と言うより寂しさや悲しみが死≠セと思います。(思い残すことなく死ねる人もいれば自殺する人もいますが…)
死を迎える際の大きな恐怖として肉体的苦しみに対する恐怖はありますが、それは「死への恐怖」ではなく病気で苦しむ恐怖と同じだと思います。
しかし、存在すること≠ヘ本当に恐怖です。目の前に実体がある≠フにつきつめると無≠ニ同じで.…神が想像.……想像ではおさまらないとてつもなく科学的な世界.……
生∞死∞存在∞無%N学や宇宙についての書物を読んでも、言いたいことは分かるけど、知りたいのはソコじゃないって感じで.……
……分かってくれる人は極僅かだと思っています。
このスレをみて、生きていることに「いったい何なんだ?」、存在に「いったい何なんだ?」、また死に対して.……同じ恐怖を感じている方がたくさんいることに驚きました。なかでも伊豆様は私と同じ恐怖を感じた方ではないかと勝手に思い書き込みしてしまいました。
死≠ノ対して悲しみや寂しさを感じていることは、自分がこの世存在≠否定していない自分がいるということですかね?
.……長々失礼しました。