楽しいことばかり追い求めて得られる主観的(客観的)幸せは欲望を満足させているだけの一時的な快楽に過ぎない。
それが幸せだと思っても本当に幸せだとは限らないし、不幸だと思っても本当に不幸だとは限らない。
言い換えれば、楽しい経験=幸せとは限らないし、苦しい経験=不幸とは限らないということだ。
例えば、労せずいきなり大金を手にし大学を中退、タワーマンションに引っ越し、悠々自適に好きなことばかりして楽しく過ごす一人暮らしの20歳の若者。この人は幸せなのだろうか?子供の頃に父を亡くし、母子家庭となる、母と兄弟一緒に狭いアパート暮らし、家が貧乏で学費が払えず働きながら自分で学費を稼いで夜間大学に通う20歳の勤労学生。この人は不幸なのだろうか?
人は、楽しい経験ばかり重ねるのではなく、苦労や悲哀体験も同等に重ねていかなければ、自分を知ることもできないし、他人の心の痛みにも共感できる(他人の気持ちに寄り添える)ようにはならない。
誰が、何が、幸せであるかは年輪を重ね、酸いも甘いも噛み分けられるようになって、ようやく理解できてくるのではないだろうか。要するに、良いことも悪いことも含めて、たくさんの人生経験を積み重ねた後になってみなければ、今の自分が(他人が)本当に幸せかどうかなんて分からない。
分からないからこそ、今が苦しいから(他人が苦しそうに見えるから)といって、即「不幸だ」というレッテルを貼るようなことはしないよう気をつけたい。
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